Story
日本は幕末から明治にかけて、西洋技術を進んで取り入れ、伝統文化と巧みに融合することで、短期間に近代化を成功させました。世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」は、1850年代から1910年にいたる、造船、製鉄・鉄鋼、石炭の重工業分野での日本の近代化の過程を伝える他に類を見ない資産群です。
8県に点在する23の構成資産の中でも、登録前から注目が集まっていたのは、長崎市の端島炭坑(通称・軍艦島)です。1890年から本格的な採掘が始まり、海底の地下1,000mから良質な石炭を採掘し、製鉄用原料炭として主に八幡製鉄所で使用され、日本の重工業分野の近代化を支えました。大正時代以降は高層鉄筋アパートが次々に建設され、小中学校や病院、映画館まで揃った島の人口は、最盛期の1960年頃には5,000人を超え、人口密度は当時の東京区部の約9倍という過密ぶりでした。しかし、主要エネルギーの座が石炭から石油に移ると衰退が始まり、1974年の閉山とともにやがて無人の島に。海に浮かぶ要塞のような姿から「軍艦島」と呼ばれた最先端のエネルギーの島は、徐々に「廃墟の島」と化していきました。
明治日本の近代化に貢献した炭坑としての功績により世界遺産となった端島(軍艦島)ですが、その後の栄枯盛衰の歴史も心を打つものがあります。クルーズ船で島に上陸すれば、激動の明治から昭和の高度成長期を駆け抜けた日本の姿が走馬灯のように浮かぶことでしょう。
8県に点在する23の構成資産の中でも、登録前から注目が集まっていたのは、長崎市の端島炭坑(通称・軍艦島)です。1890年から本格的な採掘が始まり、海底の地下1,000mから良質な石炭を採掘し、製鉄用原料炭として主に八幡製鉄所で使用され、日本の重工業分野の近代化を支えました。大正時代以降は高層鉄筋アパートが次々に建設され、小中学校や病院、映画館まで揃った島の人口は、最盛期の1960年頃には5,000人を超え、人口密度は当時の東京区部の約9倍という過密ぶりでした。しかし、主要エネルギーの座が石炭から石油に移ると衰退が始まり、1974年の閉山とともにやがて無人の島に。海に浮かぶ要塞のような姿から「軍艦島」と呼ばれた最先端のエネルギーの島は、徐々に「廃墟の島」と化していきました。
明治日本の近代化に貢献した炭坑としての功績により世界遺産となった端島(軍艦島)ですが、その後の栄枯盛衰の歴史も心を打つものがあります。クルーズ船で島に上陸すれば、激動の明治から昭和の高度成長期を駆け抜けた日本の姿が走馬灯のように浮かぶことでしょう。